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●声聞界と縁覚界<WEB法華経勉強会>

声聞界(しょうもんかい)と縁覚界(えんかくかい)の二つは、
仏教の中でも「小乗教」(しょうじょうきょう)の修行で得られる境涯といわれています。


この声聞界と縁覚界をまとめて「二乗(にじょう)」と呼びます。


声聞界とは、
仏の教えを聞いて「部分的な悟りを得た境涯」をいい、
縁覚界は、
さまざまな事象を「縁」として、
自らの力で仏法の「部分的な悟りを得た境涯」を指します。


二乗の部分的な悟りとは、
「無常(むじょう)」を悟ることです。


無常とは万物が時間の推移とともに変化し消滅することをいいます。


自分と世界を客観視して、
世間、すなわち「現実世界=現世」にあるものの全てが、
時と共に変化し消滅するという真理を自覚し、
無常のものに執着する心を乗り越えていくのが「二乗の境涯」です。


私たちも日々の生活の中で、
自分自身を含めて「万物が無常の存在である」ということを、
強く感じることがあります。


この二乗の境涯は、
仏教の中でも「小乗仏教が理想とした」とかで、
二乗の境涯を得た小乗教の聖者は、
「無常のものに執着する煩悩こそ苦しみの原因である」として、
煩悩を滅しようとしました。


しかし、そのために、
自分自身の心身を全て消滅させるという、
誤った道に入ってしまいます。(灰身滅智<けしんめっち>という)


二乗が得た悟りは、
仏の悟りから見れば、
あくまでも部分的なものであり、
完全なものではありません。


しかし、二乗は、
その低い悟りに安住し、
仏の真実の悟りを求めようとはしないのです。


師匠である仏の偉大さは認めても、
自分たちは、
そこまで到達できると考えず、
「自ら低い悟りにとどまってしまう」のです。


多くのお寺の宗派がそうじゃないでしょうか・・・?


また、二乗は自らの悟りのみに囚われ、
他人を救おうとはしない「エゴイズム」に陥っています。


これは多くの若手起業家を見れば一目瞭然です。


このように「自分中心」の心があるところに、
二乗の限界があるのです。


いかがでしょうか・・・?







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